料亭 左阿彌 - KYOTO MARUYAMA PARK SAAMI

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織田頼長

頼長のお墓a
お墓の側面から撮った写真です。
お墓の形としては、五輪塔と呼ばれるお墓の形であり、平安時代後期より建立され、鎌倉時代に一般的になりました。
上の石から、空・風・火・水・地を表していて、
密教において、物質を構成する5つの要素です。
お墓のは高さ2.5m程あります。

又、そばには、頼長お墓b
お付の人と思われるお墓があります。
左阿彌の敷地内にあり、織田頼長が亡くなられてからずっと、
左阿彌を見守っていただいておられると思っています。
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2013/04/02 15:40 】【 左阿彌の歴史

左阿彌が建立された時代

料亭『左阿彌』が建立されたのは元和元年。西暦では1615年であり、主な出来事としては、1600年の徳川家康の覇権を決定付けた『関が原の戦い』、1603年の征夷大将軍の徳川家康による江戸幕府の創設、1611年後陽成天皇が譲位し、その後、第108代後水尾天皇となる。1615年『大阪夏の陣』
1600年の関が原の戦い、1615年の大阪夏の陣には、左阿彌に住まわれた織田頼長が、豊臣方に参戦されています。
2012/10/17 22:06 】【 左阿彌の歴史

京都の料亭として開業した時代

料亭『左阿彌』が建立されたのは元和元年。西暦では1615年であり、料亭として開業したのは、嘉永2年、西暦1849年となります。それまでは、安養寺の宿坊、円山の六坊の一つと数えられました。安養寺は平安時代、延暦年間(782-806)、都鎮めの寺として第50代・桓武天皇の勅命により、最澄(767-822)が創建されました。後、1177年に法然はこの地に庵を結び吉水草庵と呼ばれ、比叡山で修行を終え降りられた後、流罪に処せられるまで40年程の長い間、伝道に努められました。
またこの地で、親鸞が法然の教えを受けたと言われています。


嘉永2年(1849年) 左阿彌 料亭開業
嘉永6年(1853年) ペリー艦隊来航
安政4年(1857年) 江戸幕府の大老井伊直弼による安政の大獄が始まる
安政7年(1860年) 桜田門外の変
文久2年(1862年) 寺田屋騒動
文久3年(1863年) 新撰組結成


黒船来航出典 大阪書籍
元号 嘉永とは、1848年から1854年までの期間を指し、この時代の天皇は孝明天皇、江戸幕府将軍は徳川家慶、徳川家定の時代です。
2012/09/28 13:23 】【 左阿彌の歴史

左阿彌建立の背景

現在の円山公園内になる1886年(明治19年)以前、円山に安養寺の塔頭の六阿弥坊があり「円山の六坊」と呼ばれていました。
多蔵庵春阿弥、延寿庵連阿弥、花洛庵重阿弥、多福庵也阿弥、長寿院左阿弥、勝興庵正阿弥の六坊があり、
塔頭は後に遊覧酒宴の宿となり、僧坊は貸し席、料亭に変わっていきました。

重阿弥では、赤穂浪士により、吉良上野介の首を討ち取ることが決定した円山会議が開かれています。

料亭 左阿彌では、明治維新以降の御前会議に使われたこともありました。
※御前会議とは、明治期から太平洋戦争終結時まで国家の緊急な重大事件に際し,天皇の出席のもとに行われた元老,主要閣僚,軍部首脳の合同会議をいい、重要な国策を決めた会議。

春阿弥は、1877年に温泉場となり、1906年に焼失しました。

吉水温泉吉水温泉

連阿弥、重阿弥は、也阿弥に合併され、也阿弥ホテルとなりました。しかし、1899年に焼失した。その後再築され、正阿弥を合併しましたが、1906年に再び焼失しました。
世阿弥ホテル世阿弥ホテル

世阿弥ホテルは京都で最初にホテルと称し明治12年(1879年)に開業し、ドアはなくカーテンで仕切っていて、明治16年の宿料、3円50銭、食事は朝食75銭、昼・夕食が1円だったそうです。

正阿弥は、1886年に洋風旅館となり、1911年に焼失しています。

左阿彌のみが、今に至るまで料亭として残っています。

出典http://everkyoto.web.fc2.com/report213.html
2012/08/12 20:31 】【 左阿彌の歴史

織田頼長

料亭 左阿彌に住まわれた、織田 頼長(おだ よりなが)は、天正10年(1582年)から 元和6年9月20日(1620年10月15日)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将です。
織田信長の実弟織田長益(有楽斎)の次男。淀殿、江姫の従兄弟にあたります。
生母は長益正室の平手政秀の娘・雲仙院殿。長益の嫡子であったと考えらます。別名は秀信。通称は孫十郎、左門、雲正寺道八。官位は従四位下侍従です。

父・長益とともに豊臣秀頼に仕え、慶長13年(1608年)1月、秀頼の命により年賀の使者として江戸におもむきます。大坂冬の陣に際して、豊臣家に帰参したと思われます。
慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に際しては長益とともに大坂城に籠城し、二の丸玉造口などを守備しました。雑兵を合わせて1万人あまりの部隊を指揮したといわれています。

元和元年(1615年)4月、大坂夏の陣に際し、大坂城を退去する。一説には、豊臣家の総大将の地位を望んだものの、叶わなかったためといいます。大坂城退去後は京都に隠遁し(現在の料亭 左阿彌)
茶の湯(現在の茶道)に専念して有楽流を継承しました。

元和6年(1620年)9月20日、京都で死去、39歳。
京都東山の長寿院に葬られました。正室は無し。ただし、『系図纂要』などによれば、教如の娘を頼長室としています。長男長好、長女(一条昭良室)の1男1女があります。
2012/01/30 11:40 】【 左阿彌の歴史
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